くすの木の件については、西田武史・市議の冠として使っているのだが、疑問点は残ったままである。
昭和40年5月4日
別所町3丁目16-32
439-1538
それを解くため、先ずは表の岸和田徳洲会病院から攻めてみる。
総務課では、私の問い合わせを西田氏に直接回答してよいかと問い、そちらの判断でお答えしてくださいと託されているとのことであった。
で、「医療法人徳洲会として契約していますとしかお答えできません」
「そりゃ、今流行りの忖度でしょ? よきにはからえって言われても、そちらもお困りでしょうねぇ。 自分が議員としての説明責任を果たさず逃げ惑うから、関係各所に訊くしかないから、問い合わせがあるのだから、トンズラせずに自分の職責を果たせ!っておっしゃればよかったのに」には苦笑してましたが・・・
防災関係の催事で、別所町の緑ジャンパーの防災団体十数人と一緒に参加しても、私がその緑に染まった机に座ると、会が終わるや否や、机の片付けもせずに一目散に飛んで逃げ帰ったトンズラ議員に訊いても回答するはずがないんだけど、携帯番号も知らんし、知っていたとしても、同じ会派(言論封殺クラブだっけ?)の西田さんのパイセンである自民からも維新からも嫌われる稀有な存在である元中山太郎秘書こと京西且哲・市議のように、着信拒否するだろうから、議会HPの自宅にかけてみる。
すると家の人が出て、私と分かった上で、色々とお答えくださった。
百条委員会で辞職勧告出されている、私が返還の先鞭をつけた政活費ネコババな小林由佳(維新 北区)堺市議との対話でも、色々とお話してくれたのは、彼女の義母である西野ビッグマザーだったし、女性は腹が座ってるよね。
1. 徳洲会の1Fカフェテリアくすの木を開店できた理由
西田昌氏が、岸和田市議をしながら、泉佐野で飲食店を経営していた。
その時、岸和田市民病院が移設し、徳洲会病院が建つこととなった。
徳洲会病院の売店や食堂などを統括している別会社が入札をしていたので、応募して入居することとなった。
入れ違いに泉佐野の飲食店は閉め、徳洲会内のカフェテリアくすの木一本に商売を絞った。
2. 武史氏とくすの木や職歴
くすの木で武史氏は働いていたが、他の方に任せられる仕事ということで、国際東洋医療学院へと引き抜かれた。
引き抜いたのは、学校の経営者である榮野川廣勝氏。
彼は不動産業。
西田家は以前、建設会社西田組を経営していた関係で、旧知の仲であったのが、武史氏ヘッドハンティングの理由である。
「何やポスティングしてたら、2国の山手なんか西田だらけやし、大地主かいなと思ってましたわ」
西田組は、後年、南海辰村建設となる。
「へぇ~」(ボタン連発)
「そんな事も知らんの? あんた岸和田の事は何にも知らんねんなぁ・・・」とあきれられたので、「よそもんやから、何にも知りませんのや。 よぉ知ってる何代も地元に住んでる人やったら、岸和田を改善できまへんがな!」と返す。
向こうも負けじと「顰蹙をこうてる」。
「顰蹙? 私は議員の私生活など興味もないし、私人としての部分を批判しているわけではありませんよ。 くすの木の件は、議員としての口利きが絡む問題として、またくすの木が法人かどうかは、国保の高額な値段決定をする議員として、社保扱いで国保逃れしていないかを監視するために訊いている話ですわ」
この辺で話しすぎたと感じたのか、家人は「来客なんで、切りますよ」と挨拶して受話器を置いた。
この話が額面通りだとすれば、別にどぉっちゅーことのない話やのに、何で議員自身が説明せんのかね?
額面通りじゃないと悟られるから、説明できんのじゃないのか?
との疑念は、未だ払拭できずにいる。