当事者のNさんの意見の転載
1978年、「愛は地球を救う」をキャッチフレーズとして日本テレビ系列で『24時間テレビ』を放送したとき、わたしは高校三年であった。そして夏休みが終わり、学校に投降した時、クラスメイトから、
「おまえは日本テレビからいくらもらったんだ?日本テレビの「24時間テレビ」で全国から集められた募金からいくらかもらったんだろ。いくらもらったんだ?」
と、真顔で聞かれたことを覚えている。以来、日本テレビの「24時間テレビ 愛は地球を救う」という番組にいい思いは持っていないのだ。
な かでも障害者を主人公とした〝感動ドラマ〟には、時として〝いらだち〟を覚えることが多々ある。そもそも〝障害者と言われるおれたちは健常者と言われる 人たちに感動を与えるだけの存在ではない。もし障害者と言われるおれたちに感動が与えられるとするならば、おれたち障害者と言われるものの声を社会はもっ ともっと聞いてくれていいのではないか〟と、ことあるたびにそう考えて来た。
〝 実際、現在の『24時間テレビ』は、「感動ポルノ」と批判を受けても仕方がないものだ。というのも、今年の同番組は、いつものように障害者のチャレン ジ企画を放送する一方で、7月に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起こった殺傷事件について、番組として言及することは一切なかったか らだ。
相模原事件の容疑者は「障害者なんていなくなればいい」「障害者はすべてを不幸にする」「障害者には税金がかかる」という考えから障害者の命を 奪ったが、この事件は同時に、社会には容疑者と似たような価値観が広がりつつあることをも明らかにした。そして、いまもなお、障害を抱える人びとはその社 会に対し、自分も襲われるのではないか、いなくていい存在だと思われているのではないかと、大きな不安を抱きながらの生活を余儀なくされている。
そん ななかで、障害者との共生をひとつのテーマにしてきた『24時間テレビ』が真っ先にやるべきことは、事件に触れた上で障害者の生を全面的に肯定し、「なく なっていい命などない」というメッセージを発信することだったはずだ。
そ うした問題に向き合うことなく、ただ障害者の悲劇とポジティブさを描いて感涙しているだけなら、それは「感動ポルノ」と誹りを受けて当然というものだ(ち なみに『バリバラ』は、事件発生後まもなく緊急で事件のことを特集し、優生思想が 社会に広がっているのではないかと警鐘を鳴らしている)。
だが、それでも注意しなければいけないのは、こんな世の中では『24時間テレビ』も重要な意 味を果たしている、ということだろう。
ネッ ト上では『24時間テレビ』を否定するために、今回の『バリバラ』を賞賛する向きがあるが、それは違う。現に、 番組司会者の山本シュウ氏は番組中一貫して「きょうは障害者がもっとも注目されるお祭り」「We are親戚」と語り、『24時間テレビ』へのリスペクトを示していたし、出演者は”『24時間テレビ』からオファーがあったら出演するか?”という質問に 全員が手を挙げていた。
それはきっと、『24時間テレビ』のように年1回でも障害者を大々的に扱う番組がなくなってしまえば、障害者はさらに社会から 蚊帳の外に追いやられてしまう可能性があるからだろう。たとえ健常者による上から目線の番組だったとしても、障害に対する理解があるとはいえない現在の社 会状況では、『24時間テレビ』が「感動ポルノ」だったとしても、「こんな難病があるのか」と知る機会になったり、「何か手伝いをしてみたい」と考える、 貴重なきっかけになっていることは否めないからだ。〟
わたしは、今年の日本テレビ「24時間テレビ 愛は地球を救う」のなかで、相模原殺傷事件をどのように取り扱うのかと思っていたが、やはり一切触れることはなかったようである。
し かしながら真に障害者といわれる人と健常者と言われる人との共生を歌いあげるならば、今年起こった相模原殺傷事件のことは避けて通れないことであり、それ を一切やっていない日本テレビ「24時間テレビ 愛は地球を救う」という番組は、ただ単に障害者と言われる人を健常者と言われる 人の〝感動ポルノ〟にしている、言わばこの上ない〝障害者ヘイト・クライム〟番組だと言わざるを得ないのである。
年に一度、日本テレビ「24時間テレビ 愛は地球を救う」で障害者と言われる人から〝感動ポルノ〟という刺激をもらって、実際では障害者と言われる人たち の存在を無視する、障害者と言われる人とあまり関わりをもとうとはしない、つねに〝傍観者〟であろうとするところに、今の日本社会の現実があるのである。
障害者と言われる人は、全員いわゆる善人君主ではない。
犯罪を犯してしまう人たちもいる。
昔障害者と言われる人が〝万引き〟か何かを起こした時、わたしと ともに障害者運動に関わっていた健常者と言われる人が「障害者が犯罪を犯すことは恥ずかしいことだ」と言ったことがある。
それにわたしが「じゃあ、健常者 だったら犯罪を犯しても、恥ずかしいことではないのか」と反論すると、彼は何も言わずにその場から立ち去った。
障害者と言われる人にもいろんな人がいる。
すべての障害者と言われる人が健常者と言われる人に〝感動〟を与えるわけではないのだ。障害者と言われる人のなかには、わたしのような〝変態的性癖〟をもつ人間もいるのだ。
〝今回の『バリバラ』のなかで、脳性麻痺を抱える番組レギュラーの玉木幸則氏は、こんなことを言っていた。「同じ人間として一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、一緒に思いを重ねていくということが、実はホンマの感動なんじゃないか」〟
わたしはこの玉木幸則氏の言葉に深く同感するのである。
わたしたち障害者と言われる人は健常者と言われる人たちの〝感動ポルノ〟ではないのだ。