百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けて デタラメな“仁徳天皇陵”

経済団体の催事で、世界最大の前方後円墳を見学に行った時のこと。

東西・南北4km四方内にある百舌鳥古墳群には、4世紀後半~5世紀後半に主要な古墳が造られた44基(前方後円墳12基、帆立貝型墳10基、方墳5基、円墳17基など)の古墳が残されていて、なかでも“仁徳天皇陵”は墳長486m(履中天皇陵古墳365m、ニサンザイ古墳300m)もあり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられている(古市古墳群は45基で、最大は15代応神天皇陵425m)。

この“仁徳天皇陵”と呼ばれている古墳だが、堺市では大仙古墳と呼んでいる。
1970年代以降の歴史学界では、『古事記』や『日本書紀』における6世紀以前の記述は、不正確な伝説であると解されているので(実在性は原則として6世紀前半に在位したとされる第26代・継体天皇から)、16代仁徳など存在しないが定説となっており、仁徳の子どもの17代履中古墳の方が古いなど突っ込みどころ満載なので、誰の墓だとかの説明はなく、ただ巨大な前方後円墳という建造物として申請している。

ゆえに、後の研究で、渡来人豪族の墓だと解明されても、何を批判されることもないとの主張。
仁徳としているのは宮内庁。

その根拠はこちら。

(引用:
しばやんの日々
2012年04月20日(金)

『古事記』の記録では、オオササギ(仁徳天皇)は丁卯の年(ひのとう:西暦427年?)8月15日に83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。
『日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(西暦399年)1月16日に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にありと記述されている。
『堺鏡』(1684年(貞享元年))には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていたようだ。


 

これが世界文化遺産としてクローズアップされ、渡来人豪族の墓だと解明されると、最も困る役所である宮内庁は、「明確で科学的な証拠が出てくれば見解を変える」と言うものの、世界遺産登録に後ろ向きであるようだ。

仮に仁徳の不存在が明らかになっても、堺市は「歴史を問う申請ではないので、名称は変わるかもしれないが取消はされない。」と強気。

仁徳天皇陵に限らず、埋葬されている人物の名前が良くわかっていない古墳がなぜ多いかについて、前述「しばやんの日々」では、
その直接的原因は、江戸時代の学者の考証が正確でなかったままに明治時代に受け継がれたこと。

「さらには天皇陵についての学術的な調査を厳しく制限され、学問的に再検討することが許されないまま今日に至っているということにあるというのだが、今も宮内庁は天皇陵の発掘を許さないために、どの天皇の古墳であるかが特定できる方法がないのだそうだ。」

とする。

世界文化遺産指定は堺の商業者に儲けのチャンスのようで、私の隣席にいた経営者は「誰の墓かわからん」指摘に「どうでもええわ。儲かりさえすれば。」とつぶやいていたが、目先の銭だけを追うのが経営者なのかと呆れさせた。

「偽モノとわかれば、イメージダウンですよね? 古墳イメージで商品をつくっているのであれば、事業者もイメージダウンでしょうね。 商品作るなら、事前に研究しといた方がいいんじゃないですかね?」と話しかけると、ぶぜんとした表情で頷いていたが。

それ以外に私が気になったのは、古墳のある阪和線百舌鳥駅周辺が住宅地で、商店街となっていない事。

これでは観光客が増えてゴミや騒音などの迷惑だけが近隣住民にもたらされ、何の得もないのではないか?

周囲の住民に訊いてみても熱心に「登録を待っている」と言う人は皆無だし、他の一般堺市住民でもそんな人を知らない。

商売用に古墳の周囲の整備した三国ヶ丘へ抜ける道を、伊勢神宮のおかげ横丁のようにすれば、地域にお金が落ちるが、沿道は全て住宅であるので大規模な引っ越しなどが必要だ。

堺市は広場などを整備中で、そこに商店などを開設する計画だとするも、地域住民に何の得があるのかについては回答を避けた。

それでも“仁徳天皇陵”について、堺市の見解を聞けただけでも、生ハニワ課長を見た以上に収穫のあった催事であった。