産経は、日本軍加害について、90年代までの姿勢を取り戻し、デマをやめ、まともな報道機関に立ち返れ!

そもそもの話、日本軍加害がなぜ戦後70年以上を経て、「なかった」論がでてくるかと言えば、資料発掘が困難で、それを取り上げるメディアも少なく、当事者である加害兵士も死に絶える中、記憶はなかったことにしやすいから。

 

資料がないのは、

慰安婦関係の資料は、日本軍が焼却しまくって、証拠隠滅した

で証言を示したように、

陸軍大臣の阿南元大将が、その当時の高級副官に機密書類を燒くように命令せいというので、命令輩出した

から。

 

南京虐殺でも「なかった」と言えなくなると、「ゲリラなんだから、その場で殺してもよい」などと強弁しているが、産経筋自体が、それを否定押している。

 

・産経新聞が毎週日曜日の連載「子供たちに伝えたい日本人の近現代史」連載48回(2014年3月9日付)

より
「戦時国際法のハーグ陸戦法規」という国際ルールにわざわざ言及した上で、「城内外の局地戦で日本軍に捕まり、正当な裁判も経ずに殺された捕虜もいたという」と、記述している。

捕虜やスパイの殺害(処刑)には、裁判での判決が必須条件であると、国際法では定められている。
その国際ルール無視で捕虜を殺害したと逆説的に証明している。

 

この連載を単独で担当しているのは、皿木喜久(さらきよしひさ)特別記者兼編集委員。
彼は社外の筆者でないどころか、論説委員長も経験済みの記者であり、この連載記事を「産経の意見でない」とは言えまい。

 

・秦郁彦氏によるもの
南京事件は宣戦布告がなく、正規の戦争ではないので、「ハーグ陸戦法規」は適用されないという異論もあるが、当時の日本陸軍刑法にも 同様の規定があった、との指摘。

 

産経94年7月1日付、論説委員室によるインタビュー記事より
「実は南京虐殺で一番多いのは、この便衣狩りなんです。便衣は国際法の保護を受けられず、処刑されてもしかたがないのですが、その前に裁判をしなければいけません。それを省略したものですから、不法殺害といわざるをえない」と明言している。
慰安婦についても、産経を主として用いて、「文句は皆様の産経にどうぞ!」と、ネトウヨらに反論してきたところである。

慰安婦問題で恥をかくのは朝日や植村さんでなく産経新聞

 

参詣については、
で、
沖縄蔑視デマを流し続けている捏造新聞こと産経新聞が自身が撒いたデマを謝罪している記事も転載した。

 

「政治勢力のデマについて、国際社会が無視している」との、メディアがあまり報じないことも、安倍奴隷の杉田水脈(自民)衆議員の活動を例示して、お知らせしてきたところだ。

毎度、恥を撒き散らしてトンズラする杉田ネトウヨが、国連で慰安婦なかったデマで恥の上塗り。

 

今回、産経の慰安婦報道で、当初、産経自身が慰安婦に寄り添う報道を行ってきたことをまとめてお伝えする。

フジTVに切られれば、倒産するしかない産経が、ネトウヨ路線に走ったのは『新潮45』の例と同じだ。

ネットで記事を発信しまくり、ネトウヨ養成の下地ともなってきた産経には、かつての記事を見直し、「ネトウヨ相手にデマを吐き続けても食えない」との気付きの機会を持っていただきたい。

 

1.最初に性奴隷だとカム・アウトした金学順氏について
91.12.7
大阪本社版
日本政府を相手に謝罪と賠償を求めて、6日に東京地裁で提訴後の会見。

金さんは17歳の時、日本軍に強制連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として働かされた。

金さんの思いとして、

日本の若い人たちに過去の侵略の歴史を知ってもらいたい。
日本政府は従軍慰安婦の存在を認め、謝罪してほしい

 
93.8.31
「人生問い実名裁判」
1941年頃、金さんは日本軍の目を逃れるため、義父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳のときだ。

言葉の解説として、
従軍慰安婦
戦時中、強制連行などで兵士の性的処理のために従事させられた女性。
当時の正確な総数を示す資料はなく、終戦時で約8万人以上とされている
と説明。

記事からの読み取りでは、

「慰安婦」に身売りされた事実はない
金さんは強制連行された
2.強制連行について

当時の産経報道姿勢は、
91.8.14取材の北海道新聞、ハンギョレ新聞記事や、94.6.6法廷証言とも矛盾はない。

 

3.性奴隷被害者に寄り添う姿勢

93.2.16 東京本社版
インタナショナル=ヘラルドートリビューン祇特約として、ジュージ=ヒックス(豪州の経済学者)のコラムを掲載
日本はいつまでも慰安婦になるよう強制したことはないと言い張り、元慰安婦への補償を拒んでいる、隣人たちとの苦い歴史が安らぐ時がないことを自覚すべきではないか

 

94.6.10
「羽田首相、元従軍慰安婦にねぎらいの言葉 国会内の廊下で非公式対面」
では、羽田首相が一人の人間として、訪日中の元「慰安婦」に向き合っている光景を丁寧に伝えている。

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ネトウヨに贈る、日本人ルーツは、中国・朝鮮、縄文人系。

以前、こういう記事を書いた。
2001年12月18日、明仁氏自身も日韓共催のサッカーW杯大会を前に韓国に対する印象を記者に問われて、
「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。 韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。 宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。 日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。
私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以 来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」と語る根拠となっている上田氏に、明仁夫妻が京都御所で侍従抜きの3人で勉強や会食を何度も行った話だ。
東京にはネトウヨ学者らしき者がウヨウヨいるのだが、このように天皇夫妻と個別で会食の時間を皇居で過ごした者はいまい。
明仁氏は、上田氏を「先生」と呼ぶ一方、ネトウヨ学者は呼び捨てだとか。
今でもネット上には、日本人はアジア人と異なるルーツをもつ人種だとの妄言が溢れ、誤ったアジアとの分断志向へと導いている。
どんな根拠があるのかと思いきや、ネトウヨ本を提示してきた。
「正史を読めば韓国人のルーツがわかる。族譜は100%デタラメ!はびこる近親婚に近親相姦。祖先は「庶子とクマ女の雑種」これが韓民族の正体だ!目からウロコの謎とき韓国史。 」
だそうである。
著者プロフィールは、
「昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士」
となっている。
建築や税、医療系の人達と話すと、勉強したわりに簡単にネトウヨに騙されている人が多いのに驚く。
建築の勉強をすれば、歴史も珍説を発表できるようになるのか?
この珍説について、研究者の学説を示す。
日本人の半数は中国や韓国で多数を占めるOというタイプで、それに次いで多い3割は縄文人系のDタイプ。
国立遺伝学研究所、斉藤成也教授
国立科学博物館、 神澤秀明研究員
徳島大学 薬科学教育部、 佐藤 陽一准教授
の研究より
2016年06月17日 18時12分 JST 関裕二
より
バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。かたや、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統だ。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。
 現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割、O系統は5割と、渡来系の比率が高い。(引用ここまで)
この元となった番組、 2015年5月29日放送のNHK「おはよう日本」の(7時半コーナーでの特集「DNA研究で迫る日本人のルーツ」の映像の貼り付けておくので、ネトウヨ諸氏は、勉強するように。

時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。 日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。

私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以 来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」と語る根拠となっている上田氏に、明仁夫妻が京都御所で侍従抜きの3人で勉強や会食を何度も行った話だ。
東京にはネトウヨ学者らしき者がウヨウヨいるのだが、このように天皇夫妻と個別で会食の時間を皇居で過ごした者はいまい。
明仁氏は、上田氏を「先生」と呼ぶ一方、ネトウヨ学者は呼び捨てだとか。
今でもネット上には、日本人はアジア人と異なるルーツをもつ人種だとの妄言が溢れ、誤ったアジアとの分断志向へと導いている。
どんな根拠があるのかと思いきや、ネトウヨ本を提示してきた。
「正史を読めば韓国人のルーツがわかる。族譜は100%デタラメ!はびこる近親婚に近親相姦。祖先は「庶子とクマ女の雑種」これが韓民族の正体だ!目からウロコの謎とき韓国史。 」
だそうである。
著者プロフィールは、
「昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士」
となっている。
建築や税、医療系の人達と話すと、勉強したわりに簡単にネトウヨに騙されている人が多いのに驚く。
建築の勉強をすれば、歴史も珍説を発表できるようになるのか?
この珍説について、研究者の学説を示す。
日本人の半数は中国や韓国で多数を占めるOというタイプで、それに次いで多い3割は縄文人系のDタイプ。
国立遺伝学研究所、斉藤成也教授
国立科学博物館、 神澤秀明研究員
徳島大学 薬科学教育部、 佐藤 陽一准教授
の研究より
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた
2016年06月17日 18時12分 JST 関裕二
より
バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。かたや、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統だ。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。
 現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割、O系統は5割と、渡来系の比率が高い。(引用ここまで)
この元となった番組、 2015年5月29日放送のNHK「おはよう日本」の(7時半コーナーでの特集「DNA研究で迫る日本人のルーツ」の映像の貼り付けておくので、ネトウヨ諸氏は、勉強するように。

ネトウヨに贈る、ヒロヒト氏の戦争責任と、パール判事の日本加害への言及

以下は、ネトウヨへのコメントとして使ったもの。
メモ代わりに残しておく。
その1 ヒロヒト氏の命乞いによる日本などの被害
 当時、日本は「降伏の意思表示」などしていません。
 グズグズとポツダム受諾を引き延ばしていました。
 ヒロヒト氏の生命をどうするか、天皇制を存続できるのかが記載されていないかったからです。
 だからこそ、ヒロヒト氏や軍部はソ連侵攻まで受諾を伝えていません。
ソ連侵攻でたまらず白旗をあげたのは、スターリンの粛清しまくりを見て、ヒロヒト氏もそうなると予見したからです。
 そうでなく、早期敗戦をヒロヒト氏の命と引き換えにしても国民を守るために決意していたなら、1億総玉砕でもヒロヒト氏を守る松代大本営はなぜ敗戦日まで掘り進められたのでしょうか?
 もう一つ、ヒロヒト氏が戦争を引き延ばした証拠は1945年2月14日の「近衛上奏」です。
 当時は日本の敗戦が、国民も含め誰の目にも明らかでしたので、近衛文麿元首相を中心に、天皇制の維持=国体護持を最優先にした和平交渉が本格的に模索されています。
 近衛氏は米内光政(鈴木貫太郎内閣での海軍大臣)らとも内々に話し合った結果、ヒロヒト氏に「戦争の即時終結」を進言したのが、いわゆる「近衛上奏」です。
 しかし、ヒロヒト氏はこれを拒否し、戦争を続行しています。
 米内氏はヒロヒト氏の真意を忖度して、5月末の会議では陸軍大臣・阿南惟幾と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切ったとされています (吉田俊雄著『日本海軍のこころ』)が、公式にヒロヒト氏がそのように発言した記録はありませんし、少なくとも2月時点ではそのような「真意」ではなかったと、周囲の記録や被害への対処から読み取れます。
 「上奏文のなかで近衛は、『敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候』として敗戦をはっきりと予言し、敗戦にともなって『共産革命』が発生し、天皇制が崩壊するという最悪の事態を回避するために、ただちに戦争の終結に踏み切ることを主張したのである。
近衛のこの上奏に対し天皇は、『もう一度戦果を挙げてからでないとなかなかむずかしいと思う』と述べて、近衛の提案に消極的な姿勢を示した(『木戸幸一関係文書』)。
 
 天皇はまだ、戦局の挽回に期待をつないでいたのである」(吉田裕著、『昭和天皇の終戦史』)
 近衛上層以後の日本の被害:
 マニラ市街戦(2~3月)
 東京大空襲(3月10日)
 名古屋大空襲(3月12日)
 大阪大空襲 (3月13日)
 神戸大空襲(3月17日および6月5日)
 沖縄戦(4月1日~)
 広島(8月6日)・長崎(同9日)への原爆投下
 そしてダメ押しの敗戦直前のもの
8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
8月14-15日 熊谷空襲 B29・89機。死傷者687人。
8月14-15日 伊勢崎空襲 B29・93機。
8月14-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲したB29が帰路に余った爆弾を投下した[41]。
8月14-15日 土崎空襲 B29・132機。死者250人超、製油所全滅。
 
これらすべてがなかったのです。
その2 パール判事の開戦責任は米主張
より
広島の原爆慰霊碑の碑文は

「安らかに眠って下さい。
過ちは繰り返しませぬから」

と、あります。

コレに抗議をし
変わる碑文を依頼され
新しい碑文をおくった
あのパール判事のお話を紹介します。

 
~(中略)~
 
その戦争の種は
西欧諸国が東洋侵略のために
蒔いたものであることも明瞭だ。

さらにアメリカは、
ABCD包囲陣をつくり、
日本を経済封鎖し、
石油禁輸まで行って挑発した上、
ハルノートを突きつけてきた。

アメリカこそ開戦の責任者である。

 
~(中略)~
 
これが本照寺に建立されている
【大亜細亜悲願之碑】です。

激動し
変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の想いを抱いて死んでいった
しかし大地深く
打ちこまれた悲願は消えない
抑圧されたアジア解放のため
その厳粛なる誓いに
いのち捧げた魂の上に幸あれ
ああ 真理よ!
あなたはわが心の中にある
その啓示に従って
われは進む

ラダビノード・パール
(抜粋ここまで)

 
ネトウヨ主張では、広島の碑文は主語がないので、英米の責任を記せとパール氏に頼んだんだよね?
で、どこに英米の責任など書かれているのか?
 
しかも「アジア解放」でなく「自らも強盗の一味として、負けてはならじと、分捕り合戦におっとり刀で参加した」でしょ?
 
これは皆様のサンケイでも書かれている。
「アジア解放」は純粋かつ実際の目的ではなく、石油などの産地である欧米諸国の植民地の横取り=侵略こそが本来の目的だったのだと、明確に説いています。
ちなみに記事の全文は、敗戦までのところで区切りにして単行本にした『子供たちに伝えたい日本の戦争』(産経新聞出版、2014年7月、1300円+税)にある。
子供たちに伝えたい日本の戦争 1894~1945年 あのとき なぜ戦ったのか -
子供たちに伝えたい日本の戦争 1894~1945年 あのとき なぜ戦ったのか –

もっと詳しくは↓
皆様の産経による 日本軍加害報道

また、同時期、スペインの独裁者フランコは、その地理的条件を交渉材料に、独英米と渡り合い、中立を維持した。
それと比較すれば、日本の為政者の無策ぶりが透けて見える。

それは猛々しく叫ぶ安倍氏やイシハラ氏のような政治ゴロにも知恵がないことの証左となろう。
その3 パール判事による日本加害とネトウヨによる改竄
南京大虐殺をパール判事は事実と認めた。 そして、田中正明は改竄した。 – ナザレのイエスと釈尊道元の思想の深化。日本人の知性で考える! – Yahoo!ブログ
2008/7/5(土) 午前 8:56
https://blogs.yahoo.co.jp/satoatusi2006/11721231.html
より
南京大虐殺をパール判事は事実と認めた。 そして、田中正明は改竄した。

以下は、中島岳志著(北海道大学 公共政策大学院 准教授)
「パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義」
白水社 ¥1800- 2007年発行
に、大部分拠っています。是非、購入して、一読をお勧めします。
パール判事の人格の素晴らしさに触れることが出来ます。至福の時です。

●田中正明は改竄を行う。パール判事の場合も。松井石根の場合も。
なぜ行うのか?それは、歴史の真実を知ろうとしていないからである。
だから、歴史家としては、失格であり、田中正明を土台に構築する人は
全てウソの上に乗っているので崩れ去る。

(1)パール判事は、日中戦争を「戦 争の規模に達していた」と主張し、
東京裁判では<日中戦争以降を>審議の対象とすべきと訴えた。

一方、田中正明は、ウソをつき、
“「パール判決書」には「本裁判所における管轄権は、1941年12月7日以降、
日本降伏までの間に起きた、いわゆる太平洋戦争中の戦争犯罪に対してのみ
限定すべきである」と記載されている。“
としている。(田中が正しいか?パール判事が正しいか?明確である。)

これは明確な田中正明の改竄であり、パール判事の主張を著しく歪曲している。

なぜ田中正明は、ウソを言う必要があったのか!
それは、日中戦争が、日本の自衛のための戦争ではなく、
中国領土を奪うための侵略戦争だったことを、田中正明自身は知っていて、
どんな理屈を つけても、自衛戦争と言えなかったからである。

(2)更に、田中正明は、自分に都合の悪い、(田中の考えを否定する)
次のパール判事の批判を読者に隠している。

パール判事の激しい批判:
・張作霖爆殺事件は「無謀でまた卑劣である」「殺人と言う卑怯な行為」
・満州事変を「非難すべきもの」
・満州国建設を「手の込んだ政治的狂言」
・南京虐殺やフィリピンでの虐殺を事実と認定し「鬼畜行為」と批判

パール判事は、英国が自分の祖国インドを植民地支配しているのと
日本がニセ満州国を建設し植民地支配しているのを、重ねて同列に見ている。

田中正明は、自分に都合が悪いので、これらを一切触れず、読者に隠している。

この部分は「パール判決書」の最 も重要な論理展開の場合であり、
このパール判事の明確な価値判断を示すものであり、
これを意図的に隠すのは、極めて大きな問題がある。
日本人に対しても、犯罪行為である。

つまり、この田中の行為は「田中正明の価値判断」と「パール判事の価値判断」と
が明確に異なっていることを知っており、パール判事が田中正明を否定するので、
「パール判事の価値判断」を隠した訳です。
このような田中正明は、パール判事を紹介する資格はない。

(3)パール判事は、判決書の中で、
・「東条一派は、多くの悪事を行った」
・「日本の為政者、外交官および政治家らは、おそらく間違っていた」
・「自ら過ちを犯したのであろう」
と言明し、日本の為政者に道義的責任があ ることを明確に示している。

だから、パール判事の主張を、次のようだと言うのはウソである。
・「日本の為政者には一切責任がない」
・「日本は道義的にも無罪」

田中正明の「パール博士の日本無罪論」は題名からして、ウソである。

●パール判事は、1966年10月1日(敗戦後21年)80歳に再び日本に来た。
そして、次の様に演説しています。
「私は今でも確信をもって、自分の判決書に書いてあることが間違いないと
いうことを断言できます。」

更に、A級戦犯の賀屋興宣や荒木貞夫や、A級戦犯容疑の岸信介を前にして
「あの戦争裁判で、私は日本は道義的には責任はあっても、法律的には責任はない
という結論を下しました。」と本人の眼の前で言っています。

つま り「日本の為政者に、当時の国際法では、法的責任は問えないが、
道義的責任が存在する」ことを端的に、A級戦犯本人の前で述べている訳です。
これが80歳のパール判事の信念です。
その2ヶ月後、パールはカルカッタで死亡する。

●田中正明は、パールの息子プロサント・パールをも騙した。
そして、東条英機の映画「プライド 運命の瞬間」を作った。
息子プロサント・パールは、すぐさま抗議の手紙を書いた。
田中正明から返事が来たが、それは息子プロサント・パールにとって
「屈辱的な裏切り行為」以外の何者でもなかった。

これは、東条英機の映画「プライド 運命の瞬間」がパール判事を騙して
いることを示している。恥知らずな映画である。

●日本の右翼 に、パール判事の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
日本を、崩壊の崖っぷちに導いたのは、日本の軍隊です。
再び、日本の右翼が日本を滅ぼす道に導いています。
若い人が騙されている。憂国。

なんとしても絶対平和主義者のパール判事の意思を伝えたい。
それが、アジアの平和を作り出すことになる。と確信する。

==========

『ヒンドゥー・ナショナリズム―印パ緊張の背景』(2002年、中公新書ラクレ)
『中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義』(2005年、白水社→白水Uブックス)
『ナショナリズムと宗教―現代インドのヒンドゥー・ナショナリズム運動』
(2005年、春風社→文藝春秋ライブラリー)
『インドの時代―豊かさと苦悩の幕 開け』(2006年、新潮社→新潮文庫)

『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』(2007年、白水社→白水Uブックス)

『朝日平吾の鬱屈』(2009年、筑摩書房 双書zero)
『中島岳志的アジア対談』(2009年、毎日新聞社)

ソ連の北方四島占領、米が援助してた。 北海道新聞のスクープ!

ネトウヨは、台湾も領有権を主張しているが日本が実効支配している尖閣諸島について、中国に対してのみ問題にするし、上陸に向かうスタンドプレー議員もいる。
だが、韓国に実効支配されている竹島や、70年以上占領下にある北方領土には向かわない。
理由はこうだ。
2006年8月16日、北方地域における歯舞群島の水晶島付近の海域で操業中の北海道根室市花咲港所属のカニかご漁船「第31吉進丸」がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件があった。
海上保安庁によると、ロシア側から日本漁船が銃撃を受けたのは、1950年以降41件目で、2000年4月以来のことになる。
つまり、威嚇射撃なく打たれるので、ビビって行けないので、日本の海保に取り締まられる程度ですむ尖閣諸島に、皆が向かうわけ。
そんな北方領土は、アメリカのせいで返還がなされなかったことは知られている。
1956年の日ソ共同宣言で、ソ連が「2島を返す」とした際、ジョン=フォスター=ダレス国務長官が、「もしも二島で妥協するなら 沖縄を返還しない」とした“ダレス恫喝”に乗っかって日ソ国交正常化に反対する自民党吉田派に負けた鳩山一郎首相が、2島返還でなく全島返還なしで日ソ共同宣言を迎えてしまったのだけれど、その後も日本国内で返還の声は上がらなかった。

国内の返還運動の始まりは、1966年の根室市役所領土対策係による署名運動&全国キャラバン
北方領土の日が制定されたのは、1981年で、77年の200海里問題頃より世間認知されだしたのではなかったか?
今回、更にもっと積極的に軍事的支援をもって北方領土のソ連占領に米が協力していたと、道新がスクープした。
コールドベイ 北方領土染占領支援.jpg
ネトウヨらは「ヤルタ協定の秘密事項をそのまま実行しただけ」
ソ連による侵攻が降伏後だったのが問題なのであって、降伏以前の段階でアメリカがソ連兵を訓練しようが船を貸そうが問題なし
などと安倍奴隷のネット書き込みバイト丸出しで米擁護に必死だが、
米のやり口は、21世紀になっても、イラクで少数のスンニ派(アラブ全体では多数派)を傀儡の支配層に据え、多数のシーア派を押さえつけることで国内情勢を不安定にし、米軍の存在価値を高めているように、火種を作り続けておき、世界最大のテロ国家として、揉め事をいつでも起こそうとしてきた。
それが、ここでも示されているのであり、だからこそ米ソ両国とも積極的には情報の公開をしてこなかったものである。
歴代米ロ大統領との会談で、日本の首相は聞かされていたか?
メディア報道はされてきたか?
日本が未だに敵国条項から外されず、日米地位協定によって米保護領として、独立がなさていれないことすら、日本でどれほど知られていることかを考えれば、日米露にとって、この報道は知られたくないものであったはずだ。
ネトウヨが訳知り顔で後付け解説するなら、自ら調査を行い発信者となればよいが、そのような実績などつくれようもないのであった。
ソ連4島占領、米が援助.jpg
参考:
より「プロジェクト・フラ」作戦 北海道の根室振興局が調査

【根室】1945年8、9月に行われた旧ソ連軍による北方四島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたことを、根室振興局が米国とロシアの専門家による研究成果などを突き合わせ、明らかにした。米国はソ連の対日参戦に備え、大量の艦船の提供だけでなく、ソ連兵の訓練も行っており、米国の強力な軍事援助が四島占領の背景にあったことが浮かび上がった。

振興局の調査結果によると、樺太南部の返還と千島列島の引き渡しと引き換えに、ソ連の対日参戦が決まった45年2月のヤルタ会談の直後、ともに連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」と呼ばれる合同の極秘作戦をスタートさせた。

米国は45年5~9月に掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。4~8月にはソ連兵約1万2千人を米アラスカ州コールドベイの基地に集め、艦船やレーダーの習熟訓練を行った。コールドベイには常時1500人の米軍スタッフが詰め、ソ連兵の指導に当たったという。

訓練を受けたソ連兵と貸与艦船は樺太南部や千島列島の作戦に投入された。8月28日からの択捉、国後、色丹、歯舞の四島占領作戦には、米の貸与艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、四島の占領は9月5日までに完了した。

こうした歴史的史実が判明したのは、根室振興局が2015年度から取り組む北方領土遺産発掘・継承事業がきっかけ。各国の資料を集める中で、ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べ上げたイーゴリ・サマリン氏(現ロシア・サハリン州戦勝記念館科学部長)の論文「1945年8月のサハリンとクリール諸島上陸作戦に参加した軍艦と補助船舶の注釈付きリスト」(2011年3月)を入手した。

以下略

日本国憲法制定の経緯

先ず、憲法が「押しつけ」と主張する者に問いたいのだが、1946年4月10日新選挙法による第22回衆議院議員総選挙施行までは、女性の参政権はなかったのだが、この議会が策定した立法などは「押しつけ」ではないのか?

1890年第1回選挙は高額税金を納める25歳以上の男性のみが投票(全国民の1%)、1925年には税額撤廃する(全国民の20%)も、男性のみの議会による「押しつけ立法」が続いたんだがね。

ここでの論点はもう一つ。

9条をGHQ提案したのは、幣原喜重郎首相とヒロヒト天皇だということ。

(特に9条)改憲論者は、ヒロヒト氏及び天皇家に唾する行為であると知った上で、主張するように!

「日本国憲法の誕生」なるHPがあり、そこを見ればわかるのだが、年表形式で抜粋する。

http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

日本国憲法制定の経緯

1945年

10月4日     近衛文麿副(東久邇宮稔彦王内閣で、副総理格の国務相)、ダグラス=マッカーサー(連合国軍最高司令官)マッカーサーと会談し、憲法改正の示唆を受ける。

10月11日     幣原喜重郎(総理)、マッカーサーを訪問し、憲法の自由主義化の示唆および人権確保の五大改革指令を受ける。

内容については、民政局(GS)スタッフのラウエル氏のレポートによれば、「(国民の人権を保護する)権利章典」、「三権分立」、「議院内閣制」、「裁判所による違憲審査権」、「地方自治」などの必要性が挙げられていた。

10月13日     佐々木惣一(元京大教授 憲法学者)、内大臣府御用掛に任命。

これは、近衛が「内大臣御用掛」として開始したものだが、内大臣主導でこうした作業が行なわれることに批判が続出し、後に頓挫する。

臨時閣議、憲法改正のための研究開始を決定(担当大臣松本)。

内大臣主導の憲法改正作業とは別の作業だが、この基本的方針も「明治憲法を温存し、若干の手直しを」という極めて不充分なものであった。
彼らは「戦時下の自由抑圧は、『統帥権独立』を悪用した軍部の暴走や、治安維持法に象徴される悪法など、憲法からの逸脱に原因がある」と主張。
しかし、こうした主張は、「軍部による政治支配」や「悪法」をチェックできなかった、それどころかこうした「悪法」が「合憲」としてまかり通るという、明治憲法の「重大な欠陥」から、目を背けるものであった。

10月25日     憲法問題調査委員会を設置。

松本委員長、「直ちに改正案の起草に当たることは考えていない」と談話。

10月29日 日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として「憲法研究会」が結成。

事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。

11月22日     近衛、帝国憲法改正要綱を天皇に奉答。

内大臣府廃止を前に、共同作業者の佐々木惣一と意見の調整が出来ず、近衛文麿が単独で天皇に奉答したもの。

条文化せず、要綱という形でまとめられている。

明治憲法の基本的枠組みはほぼそのままながら、天皇の大権の制限や臣民の自由の尊重など、民主主義の強化とそのための天皇制の改革というGHQの憲法改正の方向性をかなり反映したものになっている。

11月24日 佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」
GHQの意向を取り入れることを嫌った内大臣府御用掛佐々木惣一が、(日付は11月23日)に天皇に奉答した改正案。

憲法改正の要否の判断に始まり、全百か条からなる条文化した改正案が提示されている。

天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっている。

その中で注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点である。

内大臣府廃止。
憲法問題調査委、第4回総会で各委員が改正試案を起草することを申合せ。

12月8日     松本、衆議院予算委で「憲法改正四原則」表明。

1.天皇の統治権総覧の堅持、2.議会議決権の拡充、3.国務大臣の議会に対する責任の拡大、4.人民の自由・権利の保護強化の4つ。

12月19日     情報局与論調査課「憲法改正に関する世論調査報告」。

内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して各府県における社会各層の意見を集めたもので、報告は総数287件に及んだ。

憲法の改正については全体の75%(216件)が必要と答えている。

その内容は天皇大権の制限、議会の権限増大が最も多く(70件)、ついで貴族院の廃止もしくは改革(57件)、民意の尊重(41件)、人民の権利の拡張・自由の保障(32件)が多かった。

改正手続きについては現行方式を可とするもの、不可とするものがおおよそ半々であった。労働者、小作農に主権在民の主張や民定憲法を求める傾向が高いことがうかがえる。

12月26日     憲法問題調査委、第6回総会で大改正・小改正の各案の作成を決定。
野村淳治顧問、意見書を提出。

「野村意見書」とも呼ばれるもの。

これは、11月24日の調査委員会第4回総会における申し合わせに基づき作成された文書であるが、提出の時期が遅れたことと内容の革新性のため、同委員会の審議の役に立たなかった。

本意見書において、野村は、デモクラシーの意義、外国の憲法制度、その沿革などに触れつつ、改正意見とその理由を詳細に論じている。

その内容は、憲法の基本原則に触れない他の委員の改正私案とは異なり、きわめて革新的で、憲法の一大改正の必要性を訴え、アメリカ型の大統領制といった政府機構の樹立や、土地や一部企業などの国有・国営化などを主張している。

憲法研究会、「憲法草案要綱」発表。

同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。

また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。

なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。

また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。

1946年

1月4日 「松本四原則に基づく、松本私案を作成。

1月7日     松本、私案につき天皇に奏上。

1月24日     幣原、マッカーサーと会談(天皇制存続と戦争放棄に関して話合い)。

幣原、9条の原案を提言。

「戦争を世界中がしなくなるには、戦争放棄が必要」

マッカーサー「その通りだ。天皇を残すにはその方法しかない」

裏付け:憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため1958年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。

高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。

だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。

堀尾輝久・東大名誉教授は、国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。

2016年1月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は1958年12月10日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。

マッカーサーから15日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。

「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。

2月1日 『毎日新聞』第1面に突如「憲法問題調査委員会試案」なるスクープ記事が掲載される。

これは正確には、松本委員会の内部では比較的リベラルな、いわゆる「宮沢甲案」にほぼ相当するものであった。

しかし、毎日新聞が「あまりに保守的、現状維持的」としたのをはじめ、他の各紙も、政府・松本委員会の姿勢には批判的であった。

この『毎日新聞』によるスクープ記事は、GHQが日本政府による自主的な憲法改正作業に見切りをつけ、独自の草案作成に踏み切るターニング・ポイントとなった。

2月3日 マッカーサーが、GHQ民政局長であったコートニー・ホイットニーにGHQ草案(マッカーサー草案)の起草作業を指示します。

1.「天皇は、国家の元首の地位にある」
2.「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」
3.「日本の封建制度は、廃止される」

2月7日     松本、「憲法改正要綱」につき天皇に奏上。

          
2月8日     政府、「憲法改正要綱」と「説明書」をGHQに提出。

2月13日     ホイットニーら、「憲法改正要綱」の受取りを正式に拒否するとともに、GHQ草案を吉田外相、松本らに手交。

2月22日     閣議、GHQ草案受入れ決定。
松本・吉田茂(外務大臣)・白洲次郎(吉田に乞われ、終戦連絡中央事務局の参与として、GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった)、GHQを訪問しホイットニーらと会見。
幣原、天皇に事情説明。

3月6日 天皇による9条発議の「官報」公布。

昨五日内閣総理大臣ヲ宮中ニ召サレ左ノ勅語ヲ下賜セラレタリ

日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ進ンデ戰爭ヲ抛棄シテ 
國民ノ總意ヲ基調トシ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ政府当局其レ克ク
朕ノ意ヲ體シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ

現代語訳 
3月5日 内閣総理大臣を宮中に呼ばれて次のように天皇が詔をお伝えになりました。

日本国民が正義の自覚をよりどころとしてみずから進んで戦争を放棄して 
国民が全員一致を基本として憲法に根本的な改正を加え 政府当局はこれを念を入れて
朕(天皇)の身を以ての意向を必ずやこの目的を達成することを期待します。

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政府、「憲法改正草案要綱」発表。

3月5日案は、GHQの了解を得て、字句の整理をしたうえで、要綱の形で発表されることとなった。

要綱の作成作業は、入江俊郎法制局次長を中心に進められた。

要綱は、3月5日案の英文を基本として、その枠内で、日本文の表現を整えたものである。

4月2日 国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)は、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出した。これが主たる契機となり、GHQの了承、また、閣議の了解を得て、ひらがな口語体によって憲法改正草案を準備することとなった。

4月5日     口語化案、閣議で承認(口語化第1次案)。

口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得た。この案を参考として、実質的には、入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法制局次長、渡辺佳英法制局事務官らの手により、第一次案が完成した。

4月10日 新選挙法による第22回衆議院議員総選挙施行(20歳以上に投票権、初めて女性に参政権)。

1890年第1回選挙は高額税金を納める25歳以上の男性のみ、1925年には税額撤廃するも、男性のみの議会による「押しつけ立法」が続いた。

4月16日 幣原首相が内奏し、法令の口語化はまず憲法について行い、憲法の成立施行後は他の法令にも及ぶことを伝えた。

4月17日     政府、「憲法改正草案」発表。

枢密院に諮詢。

5月13日     極東委員会、新憲法採択の3原則を決定(審議のための充分な時間と機会、明治憲法との法的連続性、国民の自由意思を明確に表す方法による新憲法採択)。

極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。

しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。

極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。

6月8日     枢密院本会議、天皇臨席の下で憲法改正草案を起立多数により可決(美濃部顧問官、起立せず)。

6月20日     第90回帝国議会開院式(開院式勅語、初めて口語体となる)。

「帝国憲法改正案」を衆議院に提出。

6月21日 新憲法草案審議についてのマッカーサー声明
マッカーサーは帝国議会での憲法審議に関して声明を発表し、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」が必要であり、新憲法が「国民の自由意思の表明」を示したものでなければならないと説いた。 

これら3つの原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一内容のものであった。

とくに「国民の自由意思の表明」については、ポツダム宣言の要請するところでもあり、極東委員会がマッカーサーに対し繰り返し強調していたものでもあった。

マッカーサーはこの声明の中で、国民の自由意思による民主的な選挙を経て成立した現在の議会は、充分に民意を代表しており、憲法問題について「国民の意思を表明する資格を有する」と言明した。

6月25日     「帝国憲法改正案」を衆議院本会議に上程(本会議、28日まで)。

          
6月26日     衆議院、憲法改正第一読会。吉田、衆議院で「9条は自衛戦争も放棄」と答弁。

7月2日     極東委員会、「日本の新憲法についての基本原則」を決定(主権在民、天皇制の廃止または民主的改革、閣僚のシビリアン要件など)。

7月23日     衆議院、小委員会設置(25日から8月20日まで13回開催)。        

7月29日     小委員会で第9条のいわゆる「芦田修正」提示。

8月24日     尾崎行雄、衆議院本会議で「良い憲法を作ることは容易だが行うことは難しい」と演説。

衆議院本会議、委員会修正案のとおり「帝国憲法改正案」を修正可決、貴族院に送付。

9月24日 マッカーサーが追加要請。
15条公務員選挙についての普通選挙の保障を追加
66条第2項に「文民」規定を追加
入江俊郎(法制局長)が応諾。

10月3日  貴族院特別委、「帝国憲法改正案」修正可決(普通選挙制、両院協議会、文民条項追加)。

10月6日 貴族院本会議、委員会修正案のとおり「帝国憲法改正案」を修正可決し、衆議院に回付。
 
10月7日     衆議院、貴族院回付案を可決。

10月29日     枢密院本会議、天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決(美濃部など2名欠席)。天皇、憲法改正を裁可。            
           

11月1日     マッカーサー、10月17日極東委員会決定の公表に反対の旨を回答。

極東委員会第30回会議において全会一致で承認された「新憲法の再検討に関する規定」(FEC-031/41)と、それを米国政府に伝える極東委員会事務局長の書簡、及び同封の議事録抄録。

上記会議は、極東委員会の政策として、「憲法発効後、1年を経て2年以内に」、国会と極東委員会が新憲法を再検討することを決定した。議事録抜粋には、「憲法再検討」決定について、日本国民への公表の時期と方法をめぐる意見交換がみられる。

その結果、憲法公布より早い時期には決定を公表すべきでないとの見解を持っていた米国代表の主張が通り、実際に極東委員会の決定が公表されたのは、翌年3月20日のことであった。

11月3日     日本国憲法公布。

貴族院議場で「日本国憲法公布記念式典」挙行。

「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」開催。

1947年
1月3日 マッカーサーは、吉田首相宛書簡で、連合国は、必要であれば憲法の改正も含め、憲法を国会と日本国民の再検討に委ねる決定をした旨通知している。
これに対する吉田の返信(同月6日付)は、「手紙拝受、内容を心に留めました」というだけの短いものであった。

アリューシャン方面の戦い 日本兵を棄民した日本国国家 それを賛美する日本会議ブログ

日本会議地方議員連盟なるネトウヨ烏合の衆のブログが、Fbを見ているとアップされてきた。
ネトウヨ友達の情報のようだ。
折角なので、ブログネタにしてあげよう。
太平洋戦争において、初めて日本国民に日本軍の敗北が発表された戦いであり、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘。
山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。
ここではアッツ島の玉砕を賛美しているが、要するに、日本兵ですら棄てたってこと。
日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。

負傷者には自決させた。
苦闘二週間余、大本営は悪化する南方戦線の戦局打開を優先すべくアッツ島を見捨てた。
防衛省に保管されていたアリューシャン作戦記録の中に守備隊に届いた事実上の玉砕命令電文の内容が記されていた。
「最後にいたらば潔く玉砕し、皇国軍人精神の成果を発揮することを望む」
陸軍の幹部が記していた内部資料「アッツ島報道方針」には、
「戦意の高揚を図り、戦陣訓を一般に理解させる。 山崎大佐はもとより、全将兵の勇戦をたたえ、統率に疑惑を抱かせないようにする」
とある。
こんな兵法無視のアホ作戦を、
アッツ守備隊玉砕の報告は5月30日に昭和天皇に伝えられた。
森山康平によれば、その際に次のようなエピソードがあったとされる。

昭和天皇は報告をした杉山元参謀総長へ「最後まで良くやった。このことを伝えよ」と命令した。

杉山はすかさず「玉砕して打電しても受け手が居ない」と言った。これに対して昭和天皇は「それでもよいから電波を出してやれ」と返答された。
などといった回線責任者の美談仕立てで〆られては、行かされた日本兵は、死んでも死に切れん。

昭和18年(1943年) – 大東亜戦争・アリューシャン方面の戦い: アッツ島の戦いが始まる。
日本会議地方議員連盟 2017/05/12 Fri 07:04
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-4858.html

より
昭和17年6月、ミッドウェイ作戦に呼応して哨戒線の前身、米ソの連絡遮断、敵の航空基地の利用阻止などを目的として、陸軍北海支隊と海軍北方部隊との協同によるアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島の占領が敢行された。
しかし、ミッドウェイ作戦の失敗によってアリューシャン列島の戦略的な価値は無くなり、しかも米軍が反攻の兆しを見せ始めたにも係わらず、大本営は何等の対策をも講じ様とはしなかった。
昭和18年5月12日、米軍は戦艦3、空母1、重巡3、軽巡3、駆逐艦12という艦隊支援のもとに、第七師団1万1千人がアッツ島に上陸を開始。
孤立した離島に敵の大群を迎え撃つ日本軍は山崎保代陸軍大佐以下二千四百名、全員が死を決意し凄まじい戦いを繰り広げた。
腹立たしいので、この辺で引用をやめる。
つづきを読むなら、リンク先へ。

教育勅語カルトにお伝えする言葉

・あんた方が、(勅語の引用元)儒教マニアの中国シンパだって、言わなくともわかってます。
そうでない?
あんたらは、日本の古典やら和語でなく、漢語や儒教ルーツのものばかりを恭しく祀りたがってるけど、どういうこと?
祖先崇拝だとか仏壇だとか位牌だとかも儒教ベースで、道元式仏教であって、釈迦・南方仏教ではないよ。
 
・中身はわかってんだろうね? 解説書『勅語衍義』って出てるんだけど、読んだ?
 
・教育勅語発行の4年後の文相になった西園寺公望は、
勅語の価値観を「文明の進歩に少なからず障害を与える。皆さんは注意し、古く偏った考えを打破し、世界の文明に合わせた教育を進め……」(1895年4月、東京高等師範学校での訓示)と批判し、
「女子教育を充実させ……外国人に親切に」などと書き込んだ「第2次教育勅語」の草案を書いている。
 
しかも、明治天皇自身が西園寺の指摘を受け入れ、草案の起草を命じてる(改定前に西園寺が病気になって改定できず)んだけど、まさかこの改定前の勅語を礼賛してないよね?
 

改定前勅語(いまあるやつね)の礼賛は、明治天皇の意思に背くことになっとるよん。

 
趙博さんのコメント
あのな、何度でも言うたるけどな、『教育勅語にもええこと書いてある』と言うてるボケども、よう読めよ。
そう、『教育勅語』にもええこと書いてあるねん。その通り!
親孝行せぇとか、みな仲良うせぇ、義務を果たせ、とかね。
ほんでな、そいういう「ええこと」は、古今東西、人間の歴史あるところ、そこかしこに(どこでも・いつでも)書いてあるし、言われてきてん。
お前らアホやから知らんやろうけど、ハムラビ法典にも、旧約聖書にも、コーランにも、阿弥陀経にも、皇国臣民の誓詞にも、毛沢東語録にも、法華経にも、女大学にも、歎異抄にも、軍人勅諭にも、アメリカ合衆国憲法にも、マグナカルタにも、共産党宣言にも、山口組綱領にも、モルモン教信仰箇条にも、大本教の教えにも、蓮如の御文にも、文部科学省の指導要録にも、町内の掲示板にも、JRのポスターにも、公共広告機構のCMにも…等々、∞ ∞∞、「ええこと」は書かれてある、あるいは言われてんねん。
これを「道徳律」あるいは「徳目」と言うの。
因みに「道徳の黄金律」って知ってるか?
「盗むな・殺すな・嘘つくな」やねんけどね。こういうことを「歴史貫通的」と言うの。

さて、『教育勅語にもええこと書いてある』として、明治天皇が臣民に下し賜えた勅語を肯定・賞賛・礼賛するのは、その御稜威(お前ら、読めるか?)を称えてるわけや。
せやろ、ちゃうか?
勅語の持つ教育力は絶大やった。
その国家主義的強制力を、お前らは褒め称えているわけや。
やんな。
明治23年から昭和20年にいたる半世紀以上の期間、教育勅語は大日本帝国臣民の教育的支柱であり、精神的模範やってん。
解りやすく言うたら「大和魂」の素は、お前らが大好きな『教育勅語』や。
日本の軍国主義の基礎であった勅語が絶大な威力を発揮した時代があった。
これを「歴史規定的」と言うの。
ほんでな「歴史規定的」やからこそ、戦争に負けて勅語は廃止・破棄されてん。衆参両院で、その謄本すら回収する と決議されたの。
国家意志として、「歴史規定的」な勅語の時代は終焉してん。
わかるか?
「歴史貫通的」なものは、人間が人間である限り、社会が社会であるかぎり、否定されることはないねん。
せやろ?
教育勅語は「歴史規定的」な文言やったからこそ、否定され得てん。

ほんで、こっからがオッチャンの説教や。
ええか、『教育勅語にもええこと書いてある』と言うてるボケどもよ。
お前らな、教育勅語の「歴史貫通性」を証明してみぃ。
ほんだら、オッチャンも『教育勅語にもええこと書いてある』と認めたるわ。
できもせんくせ(実はできない、絶対に)に、真理を体現したようなツラさらすなよ。
その前にな、お前らもっと勉強せぇ~よ。中一程度の学習内容でええから、ドタマをもうちょっと鍛えてからモノ言いや。
それが「大人」や。

You should know better.
☆御名御璽☆
p.s. ネトリベ諸君も、ね(笑)。
 
更に趙博さんの追記
三島由紀夫『英霊の聲』、中野重治『五勺の酒』この二作品にヒントがいっぱい詰まっていると思います。思想的立場を全く異にする2人の作家が、天皇(制)を如何に描いたか、今こそ議論の対象とすべきでしょうね。
教育勅語てなもんは、全く以って低次元な代物なんですよ、実は。
4.11 追記:
では、
もろだし学園が運営する塚本幼稚園(大阪市)で、首相夫人の安倍昭恵氏が名誉会長を勤める「鈴蘭会」(福岡市)が販売した教材が使われていたことが明らかになった。
同会の広報担当者が3月2日、ハフィントンポストの取材に対して認めた。

鈴蘭会は、中国の古典「四書五経」などを読み上げる「素読(そどく)」を普及させるために2009年に誕生。

安倍昭恵氏が当初から名誉会長を務めている。
2014年、塚本幼稚園に対して「大学 -素読-」のテキスト200冊を計10万円で販売していた。
とある。
ここでも重用されているのは、中国古典だ。
更に昭恵氏つながりで言えば、
彼女は、森永砒素ミルク事件の森永=
砒素混入のミルクで中毒症状(神経障害、臓器障害など、少なくとも1万2344人(うち死亡者130名)の赤ちゃんの被害者をつくった企業の社長御令嬢です。
しかも悪いことに森永は裁判でも砒素混入は砒素を持ち込んだ下請け会社の責任を主張し、自ら赤ちゃんを殺した責任を一切否認し続けた。

森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年の民事裁判中のことである。
その際、森永側は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた(工業用第二燐酸ソーダの納入業者は「まさか食品に工業用の薬品を使用するとは思わなかった」と証言)。

森永に救いの部分があるとすれば、公害病はあまたあれど、公害被害者救済方式として、三者会談方式による救済事業を行っているのは森永だけで、このような不完全な救済が日本では最高とされていることも忘れてはならない。

同様の食品公害であるカネミ油では、1万4千人の申告に対し、認定患者は2千人もおらず、今では患者の子や孫もいるが、自身が患者の子孫だと知らされておらず、救済の声もあげれずに苦しんでいる人も多数いると予想される。

参考:

特集ワイド

2017年3月28日  毎日新聞 東京夕刊  【吉井理記】
より
「皇国史観」と「国家への服従」思想 明治期、「古くて偏向」と改定の動き 戦時期には「玉砕」を助長
 まず教育勅語を読んでみよう。戦前・戦中は小学校令などでは勅語の写し(謄本)に最敬礼するのが義務だったが、今は平成の世である。落ち着いて読んでほしい。
 教育勅語は、1890年に明治天皇が国民に与えた。
戦前教育のベースとされたが、敗戦後の1948年に「主権在君や神話的国体観に基づき、基本的人権を損なう」などとして、戦後の選挙で国民が選んだ衆参両院の議員が議論し、排除・失効を決議した。
 その教育勅語、森友学園の人々だけでなく、稲田氏も「教育勅語の核は取り戻すべきだ」(3月8日、参院予算委員会)と評価した。安倍首相自身、排除された経緯に触れながらも「『夫婦は温かい家庭を築き……』など大変素晴らしい理念が書いてある」(2006年6月2日、衆院教育基本法特別委)と褒めているし、閣僚の多くが関わる保守団体「日本会議」の小堀桂一郎副会長は「教育勅語を復活すべきだ」(月刊誌「正論」03年11月号)と訴えるのだ。
 だが、以下の事実を知っても、彼らの認識は「素晴らしい」と思えるだろうか?
 「教育勅語は、明治期ですら政府内で内容が問題視され、改定が議論された。それを今に至って政治家が称賛するとは……」と絶句するのは、日本教育史が専門の日本大教授、小野雅章さんである。
 実際、教育勅語が出た4年後に文相になった西園寺公望は、勅語の価値観を「文明の進歩に少なからず障害を与える。皆さんは注意し、古く偏った考えを打破し、世界の文明に合わせた教育を進め……」(1895年4月、東京高等師範学校での訓示)と批判し、「女子教育を充実させ……外国人に親切に」などと書き込んだ「第2次教育勅語」の草案を書いた。
 驚くことに、明治天皇自身が西園寺の指摘を受け入れ、草案の起草を命じたという。
しかし西園寺の病気で実現しなかった(文相参事官を務めた竹越与三郎著「西園寺公」1947年)。
 小野さんが解説する。「西園寺の懸念は勅語にある『皇祖皇宗、国を肇(はじ)むること……』ににじむ皇国史観が『日本は特別な国だ』という内向き思考を招き、国際協調に悪影響を与える、ということです。教育勅語は数年で改定が議論される程度のものでしたが、天皇の権威が確立し、天皇の言葉の改定・撤回はありえない状況になりました」
 では内容はどうか。安倍首相いわく「大変素晴らしい」ものらしいが……。
 調べると、教育勅語が出た翌年、1891年に出版された解説書「勅語衍義(えんぎ)」に行き着いた。勅語の読み方を詳述したものだ。
 ただの解説書ではない。
宮内省帝室編修官を務めた渡辺幾治郎の「教育勅語渙発(かんぱつ)の由来」(1935年)などによると、明治天皇の命で時の文相・芳川顕正が哲学者・井上哲次郎に書かせた。
私著として出版されたが、明治天皇も「天覧」し、教育勅語が国民に何を求めているかを説明した事実上の「公式教科書」として扱われた。
 何を求めているか。例えば「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」(国家に事変があれば、勇気を奮い一身をささげて皇室国家のために尽くすべし=尋常小学修身書)の項だ。
 「(臣民は)ただただ徴兵の発令に従いて己の義務を尽くすを要す……真正の男子にありては、国家のために死するより愉快なることなかるべきなり」。
もう、訳する必要もあるまい。
 「爾(なんじ)臣民父母に孝に」の項は「一国は一家を広げたもので、君主が臣民に命じることは一家の父母が子らに言いつけることと同じだ」、「以(もっ)て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運を扶翼(ふよく)すべし」(かくして天地とともにきわまりなき皇位のご盛運を助け奉るべきなり=同)も「臣民は君主の意を体し、逆らってはならない。服従は臣民の美徳である」など、あらゆる場面で「天皇主権」が強調される。
明治政府が勅語を通じて国民に求めたものを、現代ではどう感じるか。
 政治思想史に詳しい放送大教授の原武史さんは「現憲法の国民主権、基本的人権の尊重と正反対の内容です。『良いことも書いてある』と評価する人は、一体どういう読み方をしているのか」とあきれるのだ。
 なぜなら「父母に孝に……」などの「徳目」が並ぶ一文は「以て天壌無窮の……」で結ばれる。「つまり『良いこと』のように並ぶ徳目は、すべて皇室を支えるために臣民に課す、という位置づけです。戦前の小学校でも、これが教育勅語の核と教えられた。一部を切り出し、全体を評価することはできません」と解説する。
 元文部科学相の下村博文氏も14年4月に「内容はまっとうだが、昭和期に誤った使われ方をした」と述べたが、原さんは「確かに小学校で暗唱が課されたが、昭和期に語句が変わったわけではない。最初から問題のある思想を内包していた」と両断した。
 憲法学の専門家の意見を聞いてみたい。早稲田大教授の水島朝穂さんだ。
普段は温厚なのに本気で怒っていた。
 「戦前は学校の『奉安殿』に教育勅語の写しと天皇、皇后の写真が保管された。文部省学校防空指針では人命より重視され、空襲時に持ち出そうとして焼け死ぬ校長も相次いだのです。子供も勅語で『皇室国家に命をささげよ』と教えられ、兵士となって戦場では降伏せずに玉砕した。その勅語の称賛は、不見識を越えて不届き至極です」
 現憲法の精神に反する教育勅語をたたえる国会議員は、公務員に課された憲法尊重擁護義務から見ても不適格だ、と怒りが収まらない。
 「歴史修正主義者は、枝葉を否定して全体をも否定しようとします。日本でも戦前・戦中の歴史で同じような議論がありますね。逆に教育勅語では、枝葉を肯定することで全体をも肯定する。勅語肯定論と歴史修正主義は裏表の関係なのかもしれません」
 前出の原さんはこんな危惧を抱く。
「来年は『明治維新150年』です。明治天皇の言葉である教育勅語を再評価する可能性もある。結局、私たちが歴史を見る目を養うほかはないんです」
 個人の考えは自由である。だが閣僚や国会議員の歴史観や思想は注視すべきだろう。
教育勅語が人々を縛った時代の再来を防ぐためにも。