日本国憲法制定の経緯

先ず、憲法が「押しつけ」と主張する者に問いたいのだが、1946年4月10日新選挙法による第22回衆議院議員総選挙施行までは、女性の参政権はなかったのだが、この議会が策定した立法などは「押しつけ」ではないのか?

1890年第1回選挙は高額税金を納める25歳以上の男性のみが投票(全国民の1%)、1925年には税額撤廃する(全国民の20%)も、男性のみの議会による「押しつけ立法」が続いたんだがね。

ここでの論点はもう一つ。

9条をGHQ提案したのは、幣原喜重郎首相とヒロヒト天皇だということ。

(特に9条)改憲論者は、ヒロヒト氏及び天皇家に唾する行為であると知った上で、主張するように!

「日本国憲法の誕生」なるHPがあり、そこを見ればわかるのだが、年表形式で抜粋する。

http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

日本国憲法制定の経緯

1945年

10月4日     近衛文麿副(東久邇宮稔彦王内閣で、副総理格の国務相)、ダグラス=マッカーサー(連合国軍最高司令官)マッカーサーと会談し、憲法改正の示唆を受ける。

10月11日     幣原喜重郎(総理)、マッカーサーを訪問し、憲法の自由主義化の示唆および人権確保の五大改革指令を受ける。

内容については、民政局(GS)スタッフのラウエル氏のレポートによれば、「(国民の人権を保護する)権利章典」、「三権分立」、「議院内閣制」、「裁判所による違憲審査権」、「地方自治」などの必要性が挙げられていた。

10月13日     佐々木惣一(元京大教授 憲法学者)、内大臣府御用掛に任命。

これは、近衛が「内大臣御用掛」として開始したものだが、内大臣主導でこうした作業が行なわれることに批判が続出し、後に頓挫する。

臨時閣議、憲法改正のための研究開始を決定(担当大臣松本)。

内大臣主導の憲法改正作業とは別の作業だが、この基本的方針も「明治憲法を温存し、若干の手直しを」という極めて不充分なものであった。
彼らは「戦時下の自由抑圧は、『統帥権独立』を悪用した軍部の暴走や、治安維持法に象徴される悪法など、憲法からの逸脱に原因がある」と主張。
しかし、こうした主張は、「軍部による政治支配」や「悪法」をチェックできなかった、それどころかこうした「悪法」が「合憲」としてまかり通るという、明治憲法の「重大な欠陥」から、目を背けるものであった。

10月25日     憲法問題調査委員会を設置。

松本委員長、「直ちに改正案の起草に当たることは考えていない」と談話。

10月29日 日本文化人連盟創立準備会の折に、高野岩三郎の提案により、民間での憲法制定の準備・研究を目的として「憲法研究会」が結成。

事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し、他に杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄等が参加した。

11月22日     近衛、帝国憲法改正要綱を天皇に奉答。

内大臣府廃止を前に、共同作業者の佐々木惣一と意見の調整が出来ず、近衛文麿が単独で天皇に奉答したもの。

条文化せず、要綱という形でまとめられている。

明治憲法の基本的枠組みはほぼそのままながら、天皇の大権の制限や臣民の自由の尊重など、民主主義の強化とそのための天皇制の改革というGHQの憲法改正の方向性をかなり反映したものになっている。

11月24日 佐々木惣一「帝国憲法改正ノ必要」
GHQの意向を取り入れることを嫌った内大臣府御用掛佐々木惣一が、(日付は11月23日)に天皇に奉答した改正案。

憲法改正の要否の判断に始まり、全百か条からなる条文化した改正案が提示されている。

天皇に関する第1条から第4条について変更がないなど、近衛案以上に明治憲法の枠内での改正となっている。

その中で注目されるのは、生活権の規定、憲法裁判所の設置、地方自治についての項目が盛り込まれている点である。

内大臣府廃止。
憲法問題調査委、第4回総会で各委員が改正試案を起草することを申合せ。

12月8日     松本、衆議院予算委で「憲法改正四原則」表明。

1.天皇の統治権総覧の堅持、2.議会議決権の拡充、3.国務大臣の議会に対する責任の拡大、4.人民の自由・権利の保護強化の4つ。

12月19日     情報局与論調査課「憲法改正に関する世論調査報告」。

内閣情報局世論調査課が共同通信社調査部に委嘱して各府県における社会各層の意見を集めたもので、報告は総数287件に及んだ。

憲法の改正については全体の75%(216件)が必要と答えている。

その内容は天皇大権の制限、議会の権限増大が最も多く(70件)、ついで貴族院の廃止もしくは改革(57件)、民意の尊重(41件)、人民の権利の拡張・自由の保障(32件)が多かった。

改正手続きについては現行方式を可とするもの、不可とするものがおおよそ半々であった。労働者、小作農に主権在民の主張や民定憲法を求める傾向が高いことがうかがえる。

12月26日     憲法問題調査委、第6回総会で大改正・小改正の各案の作成を決定。
野村淳治顧問、意見書を提出。

「野村意見書」とも呼ばれるもの。

これは、11月24日の調査委員会第4回総会における申し合わせに基づき作成された文書であるが、提出の時期が遅れたことと内容の革新性のため、同委員会の審議の役に立たなかった。

本意見書において、野村は、デモクラシーの意義、外国の憲法制度、その沿革などに触れつつ、改正意見とその理由を詳細に論じている。

その内容は、憲法の基本原則に触れない他の委員の改正私案とは異なり、きわめて革新的で、憲法の一大改正の必要性を訴え、アメリカ型の大統領制といった政府機構の樹立や、土地や一部企業などの国有・国営化などを主張している。

憲法研究会、「憲法草案要綱」発表。

同要綱の冒頭の根本原則では、「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇の統治権を否定、国民主権の原則を採用する一方、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。

また人権規定においては、留保が付されることはなく、具体的な社会権、生存権が規定されている。

なお、この要綱には、GHQが強い関心を示し、通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに、民政局のラウエル中佐から参謀長あてに、その内容につき詳細な検討を加えた文書が提出されている。

また、政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。

1946年

1月4日 「松本四原則に基づく、松本私案を作成。

1月7日     松本、私案につき天皇に奏上。

1月24日     幣原、マッカーサーと会談(天皇制存続と戦争放棄に関して話合い)。

幣原、9条の原案を提言。

「戦争を世界中がしなくなるには、戦争放棄が必要」

マッカーサー「その通りだ。天皇を残すにはその方法しかない」

裏付け:憲法調査会の高柳賢三会長が、憲法の成立過程を調査するため1958年に渡米し、マッカーサーと書簡を交わした事実に着目。

高柳は「『九条は、幣原首相の先見の明と英知とステーツマンシップ(政治家の資質)を表徴する不朽の記念塔』といったマ元帥の言葉は正しい」と論文に書き残しており、幣原の発案と結論づけたとみられている。

だが、書簡に具体的に何が書かれているかは知られていなかった。

堀尾輝久・東大名誉教授は、国会図書館収蔵の憲法調査会関係資料を探索。

2016年1月に見つけた英文の書簡と調査会による和訳によると、高柳は1958年12月10日付で、マッカーサーに宛てて「幣原首相は、新憲法起草の際に戦争と武力の保持を禁止する条文をいれるように提案しましたか。それとも貴下が憲法に入れるよう勧告されたのか」と手紙を送った。

マッカーサーから15日付で返信があり、「戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです」と明記。

「提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました」と結んでいる。

2月1日 『毎日新聞』第1面に突如「憲法問題調査委員会試案」なるスクープ記事が掲載される。

これは正確には、松本委員会の内部では比較的リベラルな、いわゆる「宮沢甲案」にほぼ相当するものであった。

しかし、毎日新聞が「あまりに保守的、現状維持的」としたのをはじめ、他の各紙も、政府・松本委員会の姿勢には批判的であった。

この『毎日新聞』によるスクープ記事は、GHQが日本政府による自主的な憲法改正作業に見切りをつけ、独自の草案作成に踏み切るターニング・ポイントとなった。

2月3日 マッカーサーが、GHQ民政局長であったコートニー・ホイットニーにGHQ草案(マッカーサー草案)の起草作業を指示します。

1.「天皇は、国家の元首の地位にある」
2.「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」
3.「日本の封建制度は、廃止される」

2月7日     松本、「憲法改正要綱」につき天皇に奏上。

          
2月8日     政府、「憲法改正要綱」と「説明書」をGHQに提出。

2月13日     ホイットニーら、「憲法改正要綱」の受取りを正式に拒否するとともに、GHQ草案を吉田外相、松本らに手交。

2月22日     閣議、GHQ草案受入れ決定。
松本・吉田茂(外務大臣)・白洲次郎(吉田に乞われ、終戦連絡中央事務局の参与として、GHQ草案の翻訳と日本政府案の作成に当たった)、GHQを訪問しホイットニーらと会見。
幣原、天皇に事情説明。

3月6日 天皇による9条発議の「官報」公布。

昨五日内閣総理大臣ヲ宮中ニ召サレ左ノ勅語ヲ下賜セラレタリ

日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ進ンデ戰爭ヲ抛棄シテ 
國民ノ總意ヲ基調トシ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ政府当局其レ克ク
朕ノ意ヲ體シ必ズ此ノ目的ヲ達成セムコトヲ期セヨ

現代語訳 
3月5日 内閣総理大臣を宮中に呼ばれて次のように天皇が詔をお伝えになりました。

日本国民が正義の自覚をよりどころとしてみずから進んで戦争を放棄して 
国民が全員一致を基本として憲法に根本的な改正を加え 政府当局はこれを念を入れて
朕(天皇)の身を以ての意向を必ずやこの目的を達成することを期待します。

14051705_ヒロヒトが9条発想者.jpg

政府、「憲法改正草案要綱」発表。

3月5日案は、GHQの了解を得て、字句の整理をしたうえで、要綱の形で発表されることとなった。

要綱の作成作業は、入江俊郎法制局次長を中心に進められた。

要綱は、3月5日案の英文を基本として、その枠内で、日本文の表現を整えたものである。

4月2日 国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)は、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出した。これが主たる契機となり、GHQの了承、また、閣議の了解を得て、ひらがな口語体によって憲法改正草案を準備することとなった。

4月5日     口語化案、閣議で承認(口語化第1次案)。

口語化作業は極秘に進められ、作家の山本有三に口語化を依頼し、前文等の素案を得た。この案を参考として、実質的には、入江俊郎法制局長官、佐藤達夫法制局次長、渡辺佳英法制局事務官らの手により、第一次案が完成した。

4月10日 新選挙法による第22回衆議院議員総選挙施行(20歳以上に投票権、初めて女性に参政権)。

1890年第1回選挙は高額税金を納める25歳以上の男性のみ、1925年には税額撤廃するも、男性のみの議会による「押しつけ立法」が続いた。

4月16日 幣原首相が内奏し、法令の口語化はまず憲法について行い、憲法の成立施行後は他の法令にも及ぶことを伝えた。

4月17日     政府、「憲法改正草案」発表。

枢密院に諮詢。

5月13日     極東委員会、新憲法採択の3原則を決定(審議のための充分な時間と機会、明治憲法との法的連続性、国民の自由意思を明確に表す方法による新憲法採択)。

極東委員会は、4月10日に予定された衆議院総選挙に対しても、国民が憲法問題を考える時間がほとんどないとして、その延期を求めていた。

しかし総選挙は予定どおり実施され、きたるべき第90回帝国議会において「帝国憲法改正案」が審議されることは既定路線となっていった。

極東委員会は、帝国議会の召集が間近に迫る5月13日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であるとする「新憲法採択の諸原則」を決定した。

6月8日     枢密院本会議、天皇臨席の下で憲法改正草案を起立多数により可決(美濃部顧問官、起立せず)。

6月20日     第90回帝国議会開院式(開院式勅語、初めて口語体となる)。

「帝国憲法改正案」を衆議院に提出。

6月21日 新憲法草案審議についてのマッカーサー声明
マッカーサーは帝国議会での憲法審議に関して声明を発表し、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」が必要であり、新憲法が「国民の自由意思の表明」を示したものでなければならないと説いた。 

これら3つの原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一内容のものであった。

とくに「国民の自由意思の表明」については、ポツダム宣言の要請するところでもあり、極東委員会がマッカーサーに対し繰り返し強調していたものでもあった。

マッカーサーはこの声明の中で、国民の自由意思による民主的な選挙を経て成立した現在の議会は、充分に民意を代表しており、憲法問題について「国民の意思を表明する資格を有する」と言明した。

6月25日     「帝国憲法改正案」を衆議院本会議に上程(本会議、28日まで)。

          
6月26日     衆議院、憲法改正第一読会。吉田、衆議院で「9条は自衛戦争も放棄」と答弁。

7月2日     極東委員会、「日本の新憲法についての基本原則」を決定(主権在民、天皇制の廃止または民主的改革、閣僚のシビリアン要件など)。

7月23日     衆議院、小委員会設置(25日から8月20日まで13回開催)。        

7月29日     小委員会で第9条のいわゆる「芦田修正」提示。

8月24日     尾崎行雄、衆議院本会議で「良い憲法を作ることは容易だが行うことは難しい」と演説。

衆議院本会議、委員会修正案のとおり「帝国憲法改正案」を修正可決、貴族院に送付。

9月24日 マッカーサーが追加要請。
15条公務員選挙についての普通選挙の保障を追加
66条第2項に「文民」規定を追加
入江俊郎(法制局長)が応諾。

10月3日  貴族院特別委、「帝国憲法改正案」修正可決(普通選挙制、両院協議会、文民条項追加)。

10月6日 貴族院本会議、委員会修正案のとおり「帝国憲法改正案」を修正可決し、衆議院に回付。
 
10月7日     衆議院、貴族院回付案を可決。

10月29日     枢密院本会議、天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決(美濃部など2名欠席)。天皇、憲法改正を裁可。            
           

11月1日     マッカーサー、10月17日極東委員会決定の公表に反対の旨を回答。

極東委員会第30回会議において全会一致で承認された「新憲法の再検討に関する規定」(FEC-031/41)と、それを米国政府に伝える極東委員会事務局長の書簡、及び同封の議事録抄録。

上記会議は、極東委員会の政策として、「憲法発効後、1年を経て2年以内に」、国会と極東委員会が新憲法を再検討することを決定した。議事録抜粋には、「憲法再検討」決定について、日本国民への公表の時期と方法をめぐる意見交換がみられる。

その結果、憲法公布より早い時期には決定を公表すべきでないとの見解を持っていた米国代表の主張が通り、実際に極東委員会の決定が公表されたのは、翌年3月20日のことであった。

11月3日     日本国憲法公布。

貴族院議場で「日本国憲法公布記念式典」挙行。

「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」開催。

1947年
1月3日 マッカーサーは、吉田首相宛書簡で、連合国は、必要であれば憲法の改正も含め、憲法を国会と日本国民の再検討に委ねる決定をした旨通知している。
これに対する吉田の返信(同月6日付)は、「手紙拝受、内容を心に留めました」というだけの短いものであった。

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watchdogkisiwada

議会の無駄遣いを正して、府下ワーストに高い国保・介保料の値下げや、子ども・高齢者施策など、市民利益への還元を! あなたの“かかりりつけよろず相談員”としての使命に励みます!! 防災士として、あなたの命を災害や犯罪から守り、 行政書士として、トラブルを予防し、 柔道整復師として、健康に過ごすお手伝いをし、 市民として、行政や議会を正しています。 【メディア出演】 TBS「ビビット」、MBS「VOICE」、ABC「キャスト」他ニュース 読売・産経・朝日・毎日の各新聞社で、その活躍は、度々紹介されています。 放漫市長と議会が大赤字にした岸和田市政を立て直す!! あまりにもひどすぎる馴れ合い議会がチェックしていない、議員特権や行政の無駄などを、岸和田で初めて私が追及、是正させています。 情報、批判はコメントいただくか、 メールアドレス:kurohata73@yahoo.co.jp 電話:080-6178-6006まで! 岸和田市議や市長らは私の追及に逃げまどっていますが、自民・公明・維新などのネトウヨ政治家だけでなく、共産・民主他どんな議員とも公開討論、受けて立ちます!!

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