「日本の歴史文化研究会」報告2 残り2/6人の発言とパネルディスカッション 熊谷正秀編1

熊谷正秀(甲子園大学教授・自由主義史観研究会理事、兵庫県教育再生協議会理事長、兵庫県教職員連盟顧問
籠池町浪・山田賢司両氏のピンチヒッター。
これまで登壇者のたどたどしさとうって変わって、よどみなく話します。
殻が最もよぉ喋っており、登壇者として「話せている」のは、次の水谷氏と二人だけでしょう。
この人だけ合図のベルを無視して、その後も持ち時間の10分を超えてしゃべり続けてました。
長いので、分割します。
・先に石本氏が提示した教科書資料について

①       小学校

日中戦争は「15年戦争」と言われるが、そのうち4年間は戦争していないのに、「15年」としていいのか?
表記の仕方が、日本が中国へ攻め入っているように見える。
なぜそうなったのかの説明はない。
「ナンキンを占領したときには、中国の人々に大きな被害と苦しみをあたえたナンキン事件が起こりました」、
「その後も中国は、アメリカやイギリスの援助を受けながら、ねばり強く日本と闘い続けていきました」について、
中国側の表現として「苦しみ」、「ねばり強く日本と闘い続け」とされ、感情移入で中国はよく戦い、日本は攻め入っていったように書かれるが、本当にそうだったのか?
なぜここまで 感情移入させる必要があるのか?
「ナンキン」の片仮名表記もおかしい。
他にも中国地名はルビ→片仮名主体→片仮名だけとなっている。
例えば、私は長春にしばらくいたことがあるが、中国読みでは「チャンチェン」だ。
しかしその読みでは通じないので、片仮名表記しても意味がない。

②       中学

石本氏も書いているように、西安事件をなぜ書かないのか?
私は中国と韓国に滞在したことがあるが、韓国では「さん付け」の韓国語で呼び、中国では呼び捨て。
そういう文化なので、我々も我々なりにやればよい。
「中国では、1927年の国民政府の樹立以来、国民党と共産党の内戦が続いていましたが、日本お中国北部への侵入に対する抗日運動が盛り上がる中、毛沢東を指導者とする共産党は、協力して日本に対抗しようと呼びかけ、国民党もこれに応じて、19379月に協力体制が実現し、抗日民族統一戦線が結成されました」では、
互いに喧嘩している共産党と国民党が「頑張ろう!」と言って戦争が起こるのは逆でおかしい。
日本が攻め入ったので、「頑張ろう!」である。
(たかひら注):
今、教科書表記を転載しつつ読み返すも、熊谷主張の意味がわからない。
単なる誤読じゃないのか?と思ったが、彼らの主張では、「盛り上がったのは抗日運動ではなく、蒋介石国民党に対する自治運動」であり、それはソ連のスターリンの傀儡である共産党のヤラセである。
蒋介石国民党を日本と無理やり戦わせ、日本に国民党をつぶさせ、その日本をアメリカが潰す。そして中国大陸は共産党がいただく筋書きで、それが実行に移されたのが西安事件」との見立てに立脚しての発言だとわかった。
彼らの主張を一定知っておかねば、理解に苦しむ。
19361212日 西安事件により第二次国共合作が成立。
これが1937 77日 盧溝橋事件=日中戦争の発端より先で、
日中戦争勃発→西安事件→国共合作なら、「挙国一致で戦おう」という機運が盛り上がるの理解できるが、順序が逆だと言いたいようだ。
彼らは「第二次」とは言わないで単に「国共合作」とする。
「第一次」 があると辻褄が合わなくなるからだろう。
「第一次国共合作」は、軍閥と北京政府に対抗する共同戦線。
訳が分からんようになるので、時系列で書く。
19111912年 辛亥革命(勃発日の1010日に因んで、「双十革命」とも称される)
武昌蜂起に始まった反清朝の暴動が全国に広がり。民主主義革命で清が打倒される。
古代より続いた君主制が廃止され、共和制国家である中華民国が樹立。
191211日 辛亥革命によって、南京において中華民国成立。
革命後、独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争う。
そんな折、『倫敦被難記』(1896年刊行)後、革命家として欧米で有名であった孫文が米より帰国したので、臨時大総統に就任した。
この時点では中国を代表する政府として国際的に承認されていた清が北京に存続。
その後、宣統帝退位、臨時大総統職の孫文から袁世凱への移譲、「臨時約法」遵守などで合意し統一され、袁世凱は、中華民国の首都を南京から自らの勢力基盤である北京移動=北京政府のはじまり。
19121928年まで 北京政府
北京に存在した中華民国政府で、北洋軍閥政府ともいう。
19137月 第二革命
革命政府は独自で中国全土を統治し、共和制を実現する力に欠け、実権は北京の袁世凱に握られていく。
そんな袁世凱の独裁政権に対する革命派(孫文ら国民党勢力)の戦いだったが、国民党側は内部統率が取れず、民間や海外の支持も集めきれない中で敗北、鎮圧される。

1925年         孫文が死去。

1926年         奉天派(張作霖)、直隷派(呉佩孚)連合政権

国民党政府は、建国以来ずっと国政を安定させる事ができずに内乱が続く。
19261928年 奉天派政権
19267月 蒋介石指揮の国民党軍による北伐。
地盤である華中を占領された呉佩孚は同年末には力を失う。
1926年末 北京政府を掌握した奉天派張作霖は安国軍総司令となり、19276月には安国軍政府を組織し中華民国陸海軍大元帥に就く。
1927年 南京に国民政府が成立。
412日 上海クーデター
蒋介石による反共クーデター。
蒋介石が国民革命軍総司令官になり、実権を握る。
これによって一時停滞していた北伐が再開される。
428日 張作霖は、李大釗など共産党員を処刑するなど蒋介石の掲げた反共に同調。
192863日 張作霖の離京
15日 北伐軍によって北京は占領され北京政府は消滅によって北京政府崩壊。
713日 中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入。
第二次国共合作では、
19357月 コミンテルンは第7回大会を開催して、従来の方針を大きく変更し、「反ファシズム統一戦線」を提唱。
81日 八・一宣言
コミンテルンの方針で中国共産党が発した抗日統一戦線結成の呼びかけ。
モスクワにいた中国共産党の王明によって「一切の救国、救民の組織が連合して、統一国防政策を樹立しよう」という宣言が発せられる。
毛沢東も抗日民族統一戦線の結成に同調。
こういった下地があっての第二次国共合作だと彼らは見ない。
それは歴史を簡略化して、都合の良い部分だけを抜き出すからだ。
コミンテルンもソ連をイコールで結んで解釈しているが、世界共産党、第3インターナショナルは、
ドイツにおけるナチスなどのファシズム(全体主義)の台頭とアジアにおける日本軍国主義による中国侵略に対し、共産党が単独で対決するのではなく、社会党や社会民主党、自由主義者、知識人、宗教家などあらゆる勢力と協力する、反ファシズム人民統一戦線を結成すべきであるという方針の下の運動。
これは従来の社会民主主義やブルジョア自由主義を的と捉える共産党の戦術を大きく転換するものであり、この方針にもとづいて、フランスやスペインに人民戦線が結成され、人民戦線内閣が誕生している。
(参考:世界史の窓
しかし、彼らはその運動を中国だけに矮小化させる。
仏・スペインは共産国ではなく、ソ連とイコールで結べないからだ。

それにソ連スターリン式の死刑制度を、毛沢東は戦後の日本兵にとっていない。
中国民間人が飢えていたのに、収監している日本兵にはキチンと飯を食わしている。
その結果、帰国した元日本兵を日本の公安が中国スパイとして、シベリア抑留兵同様に尾行している。

(たかひら注 ここまで)

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投稿者:

watchdogkisiwada

議会の無駄遣いを正して、府下一高い国保・介保料の値下げや、子ども・高齢者施策など、市民利益への還元を! あなたの“かかりりつけよろず相談員”としての使命に励みます!! 行政書士としてトラブル予防を、 防災士として防災や防犯を、 柔道整復師として健康について、 ご相談、承ります。 放漫市長と議会が大赤字にした岸和田市政を立て直す!! あまりにもひどすぎる馴れ合い議会がチェックしていない、議員特権や行政の無駄などを、岸和田で初めて私が追及、是正させています。 情報、批判はコメントいただくか、 メールアドレス:kurohata73@yahoo.co.jp 電話:080-6178-6006まで! 岸和田市議や市長らは私の追及に逃げまどっていますが、自民・公明・維新などのネトウヨ政治家だけでなく、共産・民主他どんな議員とも公開討論、受けて立ちます!!

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